東京は愛せど何にもない
椎名林檎「丸の内サディスティック」

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昨年読みたいと思っていた本を、年末に買った。当ブログの記事「好きなアイドル」で少し触れていた。
http://blog.livedoor.jp/takahashi_ryo/archives/44335401.html

石川美子著『ロラン・バルト』(中公新書)だ。

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高校の倫理の授業では、エクリチュールという語とともに、ロラン・バルトという語を聞いた気がする。もしくは、大学でだった、かもしれない。

エクリチュールとは、石川いわく、「作家みずからが責任をもってえらびとる表現形式や言葉づかい」であり、「身体にまとう衣服のようなもの」だそうだ。

これを新しい概念として提示したのが、バルトという批評家だ。彼は、論文集『零度のエクリチュール』の中でエクリチュールという語を用いたそうだ。この論文集では、「文学形式こそが作家の自由と責任と倫理をあらわす」と主張したという。つまり、彼は、作家の思想や行動にではなく、書かれたものの在り方に価値を見出だしたということだろう。

例えば、バルトは、「古池や蛙(かわず)飛びこむ水のおと」という松尾芭蕉の俳句に出会うと、このように考えたようだ。言葉を連ねて意味をどんどん付け足すのではなく、「意味の中断」がある。「水のおと」の後には、何の物語の展開も、反響もない。

バルトは、日本を訪れた経験から『記号の国』という日本論を書いた。そこでは、日本には「空虚な中心」があると驚いているそうだ。東京の中心の皇居には、一般人は入れない。フランスの町の真ん中には教会があり、人が集まる場所であるのとは、対照的だ。「すきやき」には、フランスのコース料理のようなメインの皿がなく、「天ぷら」は中心の具よりも衣のほうを食べているようである。

バルトは、ある一つの意味の強要に対抗するべく、「意味の複数性」を求めていた。しかし、日本文化に見出だしたのは、「意味の否定」というよりも「意味の中断」だった。

ロラン・バルト(1915-80)の生誕100年に発行されたのが、『ロラン・バルト』だ。2016年に入って、読んでみた。

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