イタリア語にポルポなる語をわが知りて意味を問いなば蛸のことなり
生沼義朗『関係について』「Ⅳ コンクリートの上の泥濘」

生沼義朗氏の第二歌集『関係について』(北冬舎、2012年)を読んだ。第一歌集は読んだことがないので、氏についての事前情報はほぼない状態だ。

引用したのは、歌集を読んでみて、嫌いだなと思った歌だ。ただの説明であって歌といえない。フランス語でもベルベル語でもいい。どんな単語でもいい。必然性が見当たらない。
意味があるとすれば、次に来る「じきに降る雪を抱えし雲の下、ついに合わない歩速と歩速」との関連だ。蛸の足のてんでばらばらな動きと、歩速の不一致とが対応しているのだろうか。

思いつきでバナナスタンドとバナナ購ってきて飾っておりぬ
「Ⅵ 家族/体裁」

衝動買いとも違う。発明が必要を生むという現代のありさまを、作品主体の名状しがたい感情として捉え直している。その感情を歌を通して表している。「使う」ではなく、「飾る」というのがミソだ。だから、必要なわけでもない。なくてもいいのだが、部屋に飾ることを思いついてしまった。その想像が必要の幻を生み出してしまった。似た経験があるからか共感し、笑みがこぼれた。

歌集全体で、二人称代名詞「君」の使用は一度だけだった。

さて、君とともに居るとき湧き来しはどこまで母性、どこまで父性
「Ⅲ 祭都/揺籃都市」

題名が『関係について』であるし、「後記」にも「一人の女性の存在が精神的に大きな支えになっている」とあるから、「君」の出てくる相聞歌、恋歌もあるのだろうと思った。しかし、見ると、二人称代名詞自体この歌の「君」の一回きりだった(はず)。

しかし、その女性と思しき人物はいくつかの歌に詠まれている。

妻となる人(だろう)を待ち、二時間を東京堂書店に潰す
「Ⅵ 家族/体裁」

「妻となる人」とよそよそしく、客観的に詠み込んでいる。その「妻となる人」は、別の歌では「横に居る存在」とも表現されている。また、作品主体と「妻となる人」とを、「ふたり」と表現している。

一方、「われ」「わが」といった一人称表現は幾度も登場する。万葉集の相聞歌なら「われ」と「君」が頻繁に使われるが、この歌集では「われ」が中心となっている。その周りに存在する人々は、客観的に説明される。それがたとえ「妻となる人」であっても、「君」と言ってしまわない。そうすれば、「われ」と「君」との世界になってしまうし、感情が全面に出てしまう。「異性や人間関係を含むあらゆる関係について考え、作品化」するためには「君」という語はあまりにも情緒的過ぎたのだろう。

歌集を作ったこともなければ、さほど読んだこともないが、歌集にするときの主題をこれだけ意識して、考えながら作歌していくということは並の体力ではできないのではないか。第一歌集からこの歌集までに十年かかったらしい。


毎週水曜更新します。
ほかの曜日もたまに更新します